本編の前の話

 ──まずいな、と、口の中のものを咀嚼しながら男は思う。

「チーフ?」
「んー?」
「いや、なんか苦手なもんでもありました?」

 一瞬変な顔してましたけど。部下のその言葉に、内心で苦笑する。こういう時のこの男は、瀬基でも少し驚くほどに鋭い。「いや、ちょっと思った味と違っただけよ」にこりと笑うと、ならいいっす!と笑顔が返ってくる。
 まずいというのは、何も味が不味いというわけではない。
 口の中で聞こえる咀嚼音を感じながらそれを飲み込む。味のない、砂を噛むような感覚。とうとうきたか、と思う。毎夜毎夜見る悪夢。その度に込み上がる胃液。自分が参っている事は嫌でも分かっていた。こんな事を続けていればいつかガタが来る事も分かっていた。それでもどうする事も出来なかった。否、抑瀬基はこの件をどうにかしようとは思っていなかった。

「あ、これ美味い! あれ、小豆さんそれ食べないんすか?」
「食べますよ。自分の全部食べてから人のものを狙ってください」

 賑やかなそれはよく見る光景だった。大きめの一件が片付いた為に労いの意を込めての飲み会である。テーブルに並べられた食事をひょいひょいと箸で摘んで口に入れていく。
 食事の席は、いつもと変わらない。賑やかで、和やかだ。
 ──あの、一件以来、自分達は少しだけ変わってしまった。否、少しだけに見えるのはあくまで外見だけだ。内心、それぞれの思うところがある。それは瀬基にも分かっていた。それが、自分たちの同僚をあんな形で亡くしたからだけの話ではない事も、分かっている。
 ビールで口に投げたものを喉に流し込む。味がしない。しゅわしゅわと喉で何かが弾ける感覚がするだけだ。ビールの苦味すら感じない。
 ──警察関係者内に、裏切り者がいる。
 そう、結論付いたのはいつだっただろうか。

「…ふ。……チーフ?」
「──あ、悪い、わね。なに?」
「いえ…。飲み物、大丈夫ですか?」
「ん〜、じゃあ生貰おうかしら」

 ぱちんとウインクをすれば、火澄は眉を垂らした。変に思われたわけではないだろうが、気を抜くなと内心舌を打つ。
 しっかりしろ。お前の武器を忘れるな。揺れるな。ブレるな。こんな事で──こんな、事で。
 オーダーを通し、店員が来たらその場はまた賑やかになる。全員がそちらに目を向けているのを見て、静かに息を吐いた。それから、ふと部下三人の顔を見る。
 裏切り者。犯人。相模原を、自分の唯一を、殺した、犯人。
 それが、警察関係者にいる。警察関係者。仲間の、中に。

「あ…たしかに美味しい」
「だろ〜!?」
「ん、本当ですね。期間限定なのが惜しいです」
「そうっすよねえ」

 仲間の、中にいる。この中にいる可能性も──十分にある。
 冷えていく。身体の体温が、頭が、スゥと冷静にただ水を打つ。判断材料がまるで足りない。否、例え足りたとしても。瀬基という男は信じるだろう。最後の一線を超えている場面を見るまでは、それを、自分自身の目で見るまでは。
 それは、ただの甘さだ。知っている。分かっているくせに。

「…チーフ。今日先に何か食べたんですか」
「あら、バレた?」
「いつもよりもペース遅いですから」
「よく見てるわねえ。小豆ちゃんもしかして私のこと狙ってる?」
「はあ…」

 大きな溜息を吐く小豆に、瀬基は「おっきい溜息ねえ。幸せ逃げるわよ?」とカラカラと笑いながら新しいビールを飲み干す。少しぬるくなったそれが喉に絡まる感覚は酷く気持ちが悪い。吐き気がする。吐き気が、する。

「あ、私生追加〜」
「えっ、イッキしたんすか!?」
「喉乾いてたからねえ」

 笑えば、朝倉はマジっすかと言いながらもまた店員を呼んだ。

味覚障害はいいね