なつ
ふと、不意に。麦の匂いを思い出すことがある。土臭い、雨上がりの畑。それは何気なく目を閉じた時だとか、窓から市街を眺める時だとか、雨が降りそうな空を見上げる時だとか。
「レーヌ様、いかがなさいましたか」
「……何でもないよ。少し浸っていただけさ」
臣下の言葉に緩く首を振る。あの事件。──革命から、幾つか月日が流れた。失ったものは多く、大きく。しかし得たものも決して小さくはない。この道が間違っていたのかそうでないのか。それが分かる人間はいなかった。彼。否、彼女はただ、間違ってなかったのだと、これが正しき道なのだと、自分ではない誰かに証明するために進むだけだ。
パタン、と。扉が閉まる音がする。廊下に礼儀正しく一定のリズムで離れていく足音が聞こえなくなってから、ようやく彼女は少しだけ息を吐いた。自身の身体よりも大きな机に、レーヌはべたりと額を付ける。
そのまま、しばらく無音の時が過ぎて。
「……あぁ、あー、あー…ぱさぱさの…パンが食べたい……」
小さく。絞り出すように。漏れた言葉はこの国の王とはとても思えない台詞だった。
勿論今この国は国王がパサパサのパンすら食べられないほど貧困しているわけではない。むしろその逆である。全ての国民が裕福な暮らしを、とは、まだ到底言えないが、それでも革命の前よりは、着実に国全体が豊かになっているであろう。
額をつけたまま、大きく息を吐く。なんて贅沢な台詞を言ったのだろうか。その自覚は勿論ある。あるのだが──。
と、そこまで思考を巡らせた時、コン、と乾いた音が部屋に響く。額を上げれば、控えめな声が扉から聞こえた。
「レーヌ様、今よろしいでしょうか」
「ラウル? あぁ、いいよ」
ドアから覗かせた顔は、少しだけ眉を垂らした見知った青年であった。ラウルと呼ばれた青年はそのまま一礼し、律儀にも入室の許可を得てから部屋に足を踏み入れた。
どうやらいつもの業務報告だったようで、数枚の資料を手渡し、彼はいつものようにレーヌにすらすらと報告をする。
話を聞きながら資料に目を通し、確認が終わればレーヌは薄く微笑んで判子を押し、また資料をラウルに渡す。
「うん。今回も問題ないようで安心したよ。ありがとう」
「いえ。………」
「…ん? どうかしたかい」
普段なら報告が終われば、彼も同じようにほんの少しだけ口角を上げて一礼しそのまま退出するはずなのだが、何故か少しだけ彼は言い淀んだ。
そんな様子の彼は少し珍しく、レーヌは一度目を瞬かせる。表情に深刻さは見受けられないが、言うか言わまいか迷うようなその態度にレーヌはおやと首を傾げた。
それから暫く迷っていた彼は、そのまま眉を垂らしたまま、少しだけ困ったように小さく首を傾ける。
「……あの、お腹が、空いてらっしゃいますか?」
途端、レーヌは目を軽く見開いて、はあと大きく息を吐き肩を落とした。何を言い淀んでいるのかと思えば。否、たしかに言い淀みたくもなるだろう。
「…き、こえてたのお? やだなあ…ラウルさんなんか耳良くなってない?」
「レーヌ様の声はよく通るので…」
彼女はそのまま顎を机に付けてだらりと脱力する。む、と口をへの字に曲げた彼女はまるで子供のようで「いつも」を知っている人間が見れば腰を抜かす事だろう。
「違うよ、お腹が空いてるわけじゃない。ラウルさんも知ってるでしょ? あんな豪華な食事いらないって言ってるのに毎食毎食…」
「流石に国王に自分たちと同じ食事をさせるわけにはいきませんから…」
「あ! 出たよそれ。ラウルさんまでそんな事言わないでってば」
苦笑。彼の表情から言いたいことは嫌でも伝わる。ラウルだけではない。否、むしろラウルだけなら彼女がゴネればどうにか手伝ってくれるだろう。そしてそのあとロマンに呆れられる流れだろうか。
彼女も分かっている。「国王」というのは国の顔だ。たとえ彼女がそう思っていないとしても、一般的に「粗末」と呼ばれる食事を国王に食べさせたがる人間がいるはずもないだろう。威厳にも関わる。それは国が国として立つためには必要なものの一つであった。
分かっているからこそ、レーヌも出された食事には全て口をつける。出された食事全てに毒見され、彼女のために作られたものを食べないとなると料理長が変えられる可能性もある。そうなるとまた厄介な事に、偏食家だのなんだのと要らぬ噂が立ったりもするのだ。この国だけならまだいい。その噂が外にまで広がってしまえば、また要らぬ波も立つだろう。
だから、彼女はそれを口に含む。美味しくないわけがないそれを、どうしてだか少し悲しそうに一人で食べる様に「彼」を知らない家臣は首を傾けることもあるだろう。
「ご飯はさあ、誰かと食べるから美味しいんだよ。いや、勿論料理長が作る料理は一人で食べても美味しいんだけどさ!」
「……はい、そうですね」
今、彼女に家族はいない。結婚だって時期尚早だろう。その為、誰かとテーブルを囲んで一緒に食事を楽しむことはないのだ。貴族、王族などと言ったものは全て体裁を重んじるものであるためか、自ら王と食事をしたいと言う恐れ知らずもいないのである。
ぶつくさと言葉を漏らす彼女に、ラウルは苦笑しながらも、しかしどこか嬉しそうに目を細める。
国民の上に立つ彼女は、初めて会った時の彼とはもはや別人だ。しかしそれでも──根本は、変わらない。彼であった時の期間を、彼女は忘れることはないだろう。それだけは、何故だかラウルも分かるのだった。
彼女は肩を落としながらも「美味しいのと味気ないのってやっぱ大事だと思うんだよね」「まあ料理長が楽しんで作ってるって事は分かるからそれはいいなあとは思うけど」「保存に効かない物とかは特になあ…」などとぶつぶつと眉間に皺を寄せて言葉を漏らす。
そんな様子を見ながら、ラウルはふと思ったことを口にした。
「…誰か連れて行くのなら、隠れて届けに行かなくても大丈夫になるのでは?」
「ほ、ぉっ、ぐ…」
妙な声を喉から出したレーヌにラウルは首を傾げる。けほ、と咳き込んだ彼女は、そのままバツが悪そうにラウルを見た。何秒か目線を揺らし、そのまままた額を机に乗せる。
「ばれてた……」
「あ、いえ、でも知ってるのは俺と…」
挙げられる名前に、レーヌはさらに脱力を見せた。そうだった。ロマンには昔のあの行動もバレていたのだ。今も昔もそれを言及しないのは、レーヌ同様、彼のかわっていないところなのだろう。
市街の情勢を、王として飾られた表面だけで見るのではなく、ただのレーヌとしてこの目で見たいという気持ちがあった。教会にはきちんと物資を送ってはいるが、革命の波がようやく落ち着いた今、少なくなったとはいえまだ乞食はいる。勿論彼らは彼らの生き方がある。乞食である事を吉として、乞食でいる人間もいるのだ。
だからこそ。それを自身の目で、普段の全ての国民の風景を見ていたいというのが本音だった。
「…そうだね、今度は…伝えてから行こうかな」
「はい」
「よし! あ、ラウルさんはいつ空いてる? オデットも空いてる日だと嬉しいんだけど」
「え」
「ん?」
首を傾げるレーヌに、ラウルは目を瞬かせる。当然のように自分も入っていたことにようやく気付いて、数秒。眉を垂らして笑った。
数日後。顔を汚した見慣れない四人が、教会へ物資を届けに来たと言う。その四人は物資を届けたあと、その街で花売りの少女から花を買い、またどこかに消えたらしい。花売りの少女が言うには、何でも誰かに贈る花なのだと言っていたとの事だ。