なまえ
信頼をされすぎていて、逆に何かの罠かとすら思ったことがある。
否、いっそのこと、そうであってくれとさえ思ったことすらある。
古株の仲間と会話している時に臆面もなく笑って自身を迎え入れたりだとか、自分が差し出した物を何の疑いもなく口にする時とか、銃の手入れをしている時に何も持たずに凭れかかってくる時だとか。
深夜、誰にも言わずに自分の部屋に来て、無防備に寝顔を見せている今この時だとか。
「……」
正気なのか、コイツ。と、思わず漏れそうになる言葉を溜息で濁してクリードは自身のベッドを見る。スカースカーと気持ちよさそうに寝息を立てる男は、どう見ても狸寝入りとは思えなかった。
部屋の中は無音だ。その中に、キーツの寝息と男自身の呼吸音だけが流れている。恐ろしいほどに静寂で、それがまた、何故だか自分を責めているようにも感じた。
初めの頃は、それこそ楽に懐に入れていいと思っていたし、否、今でもそれは変わっていない。男の側にいるのは楽だったし「ファミリー」の括りにいるのであれば、きっとこの男は誰にでも背後を許すのだろう。それがまた、何とも危うい行為なのだと気付いていない筈がないのに。
また息を吐いて、先程の会話を思い出す。思い立ったら即行動というのはこの男がよくする事だが、流石に深夜に部屋に来る事は初めてだった。「ちょっといいか?」だなんて言葉と共に気軽に部屋に入ってきて、そのまま暫く喋ったかと思えばそのままベッドに寝転がって。「暇だからよ、今日ここで寝るわ」と宣う男にどうして呆れずにいられるのだろうか。
そうだ。発端は数分前に遡る。
部屋に押し入りここで寝ると言った男に、それなら寝る場所もないためどこかで時間を潰すかと腰を上げたクリードだったが、それをキーツが止めたのだ。
「え、なんで? ここで寝たらいいじゃん」
「…は? どこで」
「だから、ここ」
ここ、と指差す場所はベッドだ。ベッド。キーツが寝転がっているちょうど横。
一瞬、言葉に詰まり。瞬き。
「…いや、流石に」
「あ? 嫌か?」
「……嫌っていうか。…狭い、だろ」
潜入先のトップの息子を隣に、どうして安心して寝れるというのだろうか。
最もらしい理由を口にしてみたものの、しかしキーツは「そうか?」と首を傾げるばかりだ。1人用のそのベッドは、成人男性が2人並べばそれなりに狭い。確かに身体を縮こませて入らなければならないというわけではないが、普段おそらく、このベッドよりも大きなベッドに身を沈めている男がその小ささに気付かない筈がないだろうに。
言いたい事は山程ある。それでも、自分がそれを言う立場ではないことは分かっている。だからこそ飲み込んでその理由を当てつけたように口にしてみるが、しかし当の本人は首を傾げるばかりで気付いているのかわからないフリをしているのかはわからなかった。
結局。それを飲み込む形で隣に寝転がり息を吐いたのは、それから数分後の事だ。
ぎゅうぎゅうと詰め込まれているわけではないが、それでも1人よりは流石に狭い。隣の男はもう寝息を立てていて、それがまたどこか落ち着かなくさせた。
呆れの感情が一番近いように思う。呆れと、あと、それから。
寝息の方へと身体を向けて、その顔を見る。ただでさえ童顔と部類される彼は、寝ていればそれだけまたあどけなくも見えた。安心しきって、体重を全てベッドに預けて。確かに命を狙っているわけではない。そのための潜入ではないし、彼に信頼されるように努めて接しているというのもある。だからこれは男が望んだものであり、その結果だ。
その筈だ。だから、喜びこそすれ、それに何を思うのは間違っている。簡単に騙されることがどれだけ浅慮なことなのか。その立場に身を置きながら、出会ってたった数年の男にここまで心を許して。
心に溜まっていく澱が、日に日に増していっている事実を一番受け入れたくないと感じているのは自分自身だと言うことすら、おそらく男は気付いていない。
ぎしりと、ベッドのスプリングが鳴る。それにハッとして目を瞬かせれば、寝息を立てていた男が身じろぎをするのが見えた。キーツは薄く何度か瞬きをして、それからクリードに視線を向けた。視線が合う。軽く寝ぼけているであろうその視線にいつもの鋭さはない。だと言うのに、どうしてだか身体が固まった。じっとこちらを見るその視線を浴びるのは居心地が悪く、見透かされているようでどうにも慣れない。
「ん……、寝ねえ、の?」
「……いや、もう寝る」
キーツの口から出る言葉は間延びしていて、取り止めのないものだ。軽く首を振って力を抜く。あまりにも不躾に視線を送り過ぎたかと息を吐いた。
キーツはクリードのその答えに「そ?」と首を傾げ、そのまま緩く伸びた手に頭を軽く掻き撫でられる。普段からキーツの手は暖かいが、睡魔がある分だろうか、その体温はより高く感じた。髪をくしゃりと掻き混ぜられ、そのまま頬に滑って親指が瞼をなぞる。
最初の一瞬だけ身体が強張って、それでもその温度と感覚に知らずに力が抜ける。
どれだけそのまま続いただろうか。ふと空気の抜けるような小さな笑い声が聞こえ、思わずそちらを見る。キーツは目を和らげて、少しだけおかしそうにクリードを見ていた。「……何かあるか」「んー? いや?」くくと喉を鳴らし、またおかしそうにゆっくりと頭を撫でる。時刻はまだ深夜で、その分音もなかった。月明かりの光しかない空間は、相手の表情さえどこか影を落として見せる。
「なあ」
「…何だ」
「ラズでいいよ」
一瞬。脈略もなく言われた言葉に、何を言われたか分からずクリードは目を瞬かせる。ラズ。聞き慣れないその言葉の意味を一瞬測りかねて、思わず表情を取り繕うのを忘れる。そんなクリードの様子にも歯を見せて男は笑うだけで、なんて事ないようにまた口を開いた。
「ラズル。俺のミドルネーム。だからラズな」
「……ラズ?」
「そう」
頷く。確かに男のミドルネームがそれだということは知っていたが、それでもそれを許されるとは流石に思っていなかった。「ん、何その顔」とおかしそうに破顔する男に、一度視線を揺らして言葉を落とす。
「……。いや、誰も呼んでねえだろ。てっきり」
嫌なものだと。
ミドルネームで呼ばれる事を嫌う人間はいる。そもそも名乗らない人間だって多いだろう。特に、この男は親であるリチャードや家族程の仲であるリーやロバートにさえ「キーツ」と呼ばれている。
だからこそ、呼ばれないだけの理由があるはずで。そのある種特殊な呼び名を、まるで昼食に誘うような気軽さで許可を落とすその男の真意が分からなかった。
クリードの表情からそれが伝わったのだろう。キーツは一つ瞬かせて、それからぐっと背を伸ばして仰向けになった。
「んぁー…気分?」
「はあ?」
「はは、まあ受け取らなくてもいいけど。こんな機会少なくとも今逃したら一生ねえぞ」
「……」
思わず押し黙ったクリードに「任せるよ」と顔だけ横に向けた赤髪は笑う。眠たげな顔は変わらず、しかしその声色は寝ぼけているようにも聞こえない。それでもおそらく、クリードの返答がどちらでもキーツの表情は変わらないのだろう。
口を開いて、それから閉じて。
「…ラズ」
「はは、うん」
結局。その提案を逃せずに男は口にする。懐に入り込むのが任務だ。だから、こんな選択本来なら迷う必要すらない。簡単だと内心でほくそ笑むことすらすれ、他に何か思う事などあっていいはずがないのだ。
ましてや──罪悪感など。
心の中で悪態をつく。
うん、と、再度頷いて。キーツは笑った。それはどこか含みのある笑みのようにも見えたし、単に眠そうにも見えた。