花見
「どうした?」
はたと。その声で瞬きをする。目を開ければ、そこにいるのは朱緋と同僚の凹海であった。眼帯に険しい顔をしている彼ではあるが、存外その声色は優しい。そのことに少しばかり微笑んで「いえ」とかぶりを振る。
「暖かくなってきましたからね〜。もう春ですよ、春!」
「あぁ…そういえば桜も咲いていましたよ。来る道中で見かけました」
「あ、琶旦さんも見ました? 僕も見ましたよ〜。もう既に花見をしている方達もいました!」
朝の光景を思い出しているのか、琶旦は視線をわずかに上げて言葉を溢す。それに返してから、朱緋も自身の朝を思い出した。
朝。公安に所属している男の朝は早い。そして。そのうえ──ゼットの構成員でもある朱緋は、さらに早い。基本的に睡眠はあってないようなものだろう。
それでも家の人間にすら怪しまれるわけにもいかないため、わざわざ事前に町民に朝に何か騒げる場所を教え、時間を稼げるように仕向けてから早めに解決させて諜報に赴くのが日課であった。公安としての仕事中も、もしくは終わってからも、人々から目を欺きながらゼットの拠点に赴き、情報を交換しては何食わぬ顔で戻る。勿論拠点に過度に行くことも、目立って行動をする事も得策ではないため、全てに気を配りながら。
意思を固くしてからは、この生活をずっと続けている。
朱緋真都という男の一日は、大体はこれの繰り返しであった。活動家の一面も持っているため、そちらの方面でも忙しいことは多々あったが。
「花見か…確かに桜が綺麗だと酒も進むかもしれないな」
「今日、朱緋が少し遅れたのもそれが原因か?」
窓から見える桜を少し見る凹海に、思い出したように今朝のことを口にする虎白。それに「まあそんな感じですね。楽しむことは良いことだとは思いますけど」と一つ伸びをしてみせた。
春だった。桜の綺麗な、青空の広がるただのなんてことない日だ。日差しは柔らかく、気温は仄かに暖かい。空気を肺に吸い込めば、ほんのりと桜の色が肺を満たしてくれるような。
それは「平和」を語るなら、きっとこんな日だと誰もが言うような。
窓から空を見上げる。晴天だ。雲は薄く伸びていて、太陽が視界に痛いほど輝いている。
朱緋は、少しだけ目を細めた。太陽の光が眩しい。お天道様、と呼ばれるそれは、どこまでも熱く世界を焦がしている。
「…いい天気ですねえ」
思わず口に出たその言葉は。もしかすれば彼にとっては皮肉だったかもしれない。
しかしそのぽつりとした言葉に、琶旦は「そうだ」と手を打った。
「花見、やりましょう。酒も沢山持って」
「…花見? 私たちがか」
「ええ、上手い飯も沢山持って、どこかの桜の木の下で」
どうです? と少しばかり嬉しそうな声色で口にするその科白に、虎白は何を言われたのか分からないと言った表情を一度見せる。事実何を言われたのか結びついていないのかもしれない。しかしそんな彼女に、朱緋は「いいですねえ!」と声を上げた。
「花見! 最近は目立った事件もないですからね。春の陽気が気持ちいいうちに、一杯!」
「朱緋…」
「凹海さんだって酒は好きでしょう? ね!固いこと言わずに。こちらが平和な状態を市民たちに見せることで、きっと今は平和なんだと市民も安心しますよ」
虎白さんも! とにこにこと笑う朱緋に、真面目な二人は一度目を合わせた。口車は上手い。どこかで納得している部分も、確かにあった。真面目であるが故に、全てのことを受け止めて考えてしまうのは、長所であり短所にでもなり得るのかもしれない。
そんな事を朱緋が考えているとは知らない二人は、真剣に考え込み僅かに時間が過ぎる。幾許か時間が過ぎた頃「わかった」と虎白は一つ頷く。
「確かに、朱緋の言う事も一理ある」
「おっ、だったら…」
「だが、仕事中は駄目だ」
「ええ…この四人が揃って非番になることなんて殆どないと思いますけど…」
ぶつ、と言葉を落とす朱緋に「しかし…」と虎白は眉間に少し皺を寄せる。確かに花見となると、流石にただの昼飯というわけにもいくまい。酒も出るし甘味も食べる。そうなれば、仕事どころではなくなるだろう。
琶旦もそれに「そうですか…」と残念そうな声を出し、朱緋の隣に寄って「残念ですね」と声を漏らす。肩を上げて軽く息を落として「さすがに駄目でしたか」と返して、再び空を見た。
確かに聞く人間全員に残念そうに聞こえたであろうその言葉は、しかし朱緋は全く残念には思っていなかった。酒も甘味も、娯楽に値するそれらにはあまり関心がないのだ。だから、むしろ断ってくれた方がいいとすら思っていたかもしれない。
それでも。
それでも、窓から見える桜はとても綺麗で。思わず見惚れてしまったのだ。
──その下のもとで、笑って酒を酌み交わす4人を想像してしまったくらいには。
「…もしかしたら、非番が運良く取れるかもしれない。取れたら、その時は計画しよう」
ハッと。その声で現実に戻される。言葉を放ったのは凹海だった。存外二人が残念そうに見えたのかもしれない。勤務中に酒を容認することは簡単には出来ないが、しかし楽しみにしているその案を捨てさせる事も、彼には難しかったのだろう。
「あ、いいですね。うんうん、諦めないことは大事、ですよね」
「それは…そうですが。……まあ、非番であるなら何も問題はない。うん、花見か。うん」
またもやぽんと手を叩く琶旦に、何やら自身に納得させるように頷く虎白。酒も飯も、この中で一番好きなのは何より彼女なのだ。声色で、僅かに浮ついているのも窺えた。
何を買いましょう。酒の種類は? どの桜が綺麗でしょう。あそこの通りの桜はとても綺麗に咲いていた。どうせなら──……
膨らむ仮定の話は、どれも浮き足立つようなものばかりだ。誰もが僅かに表情を緩めていた。
そんな中で、朱緋は目を細める。その花見中に、刺客でも送ればきっと彼らは無事では済まない。殺す事はもしかしたら出来ないかもしれないが、それでも片腕や片足の一つくらいはもぎ取れるだろう。そんな事でさえ、きっと自分の一言の情報で行える。
だから、どうか。
「……もう、随分と夏になったな」
自室から窓を見上げる。夜の星が輝く夜空は美しく、人工的な光が少ない分さらにその美しさを際立たせていた。
桜はもう、とうに散ってしまった。夜は少し冷えはするが、それでも暑さは春の比ではない。
結局、あの時の約束は果たされなかった。公安警察は暇ではないのだ。たとえ暴動があの時静かであったとしても、休む理由にはならない。
だから、夢物語でもあった。それは分かっていた。
しかし、あの老人の話によれば、今も桜が咲いていたという。明日には山に行く。それが酔っ払いの戯言なのかそうでないのかはその時に分かるだろう。
一つ息をして、そして自身の拳銃を握りしめた。これを使うときは、つまりそういうことだ。隠し持ったその拳銃は公安から支給されたものより、より素早く、暗殺に向いている。日本刀よりも随分と使い慣れたそれを、朱緋は息を吐いて制服に隠した。
この世界は、地獄だった。ただ、ただ。それだけだったのだ。
あの花見の約束が果たされなかった事を、自身が本当はどう思っていたのかは、朱緋自身も分かっていなかった。