星
額から、たらりと何かが流れる感覚がして目が覚めた。
「──…ぁ、…?」
目を、開けたと思ったのに、どうやらまだ閉じているらしい。幼心に、少年、テオバルドは心の中で首を傾げた。しかし、数秒も経たずにそれが目を閉じているからではなく周りが暗いからだということを悟る。
瞬きを、数度。それから、体を動かそうとして──全身に痛みが走る。思わず溢れた鈍い声が辺りを反響する。そのことで、ようやくここが狭く暗い場所だということがわかった。どうしてこんなところにいるのだろう。確か、自分たちはドライブに行っていたはずだ。忙しい父の久々の休みに、六歳のテオバルドはとても喜んだ事を覚えていた。
父を運転席に、母を助手席に。後部座席に自身が乗って。
それから。それから──どうしたのだっけ?
ずきり、ずきりと身体が痛む。周りの声は聞こえない。不気味なほどに静かで、暗い。身動きも取れない。それでも僅かに伸ばした手に触れたのは、誰かの体温だった。
「…おか、さ…? おと…」
喉も、思うようには動かない。それでも、これは、確かに指だ。人の指だ。まだ温かい。声帯を震わせるたびに痛むのは、喉なのか身体なのかもわからずに。ただ、少年は呼び続けた。
何度、声をかけただろうか。どれだけ声をかけても同じで、そんなことをしていれば次第に瞼は落ちていく。ただでさえ消耗している体力だ。幼い身体ではそれも少ししか持たない。すう、と、静かに思考は落ちていって、それを、何度も繰り返した。
そして、何度目だろうか。はたと、テオバルドは目を瞬かせる。僅かに触れられるその手が、段々と冷えていっている事に気づいてしまったのだ。
あ、と。漏れたのは空気なのか声なのか。幼心にも、これが良くない事だとは、察してしまえた。あ、あ、と。言葉にならない声を出して、それからようやく意味のある言葉を出せた。
「おか、さん、おとう、さ、…! ね、ねえ、ねえ、どう、したの、ねえ、怖いよ、痛い、痛いんだ、たすけて、ねえ…!」
恐怖心が、一気に跳ね上がる。1人に、なろうとしているのだと、本能でわかってしまったかのように。
怖い。暗い、狭い、痛い、苦しい、寒い、痛い、痛い、痛い痛い痛い──。
──そこからは、少年にとっては地獄のような日々だった。飢えは日に日に増していく。手に触れる温度はもうとっくに冷たくなっていた。体力はもう限界で、瞬きをすることすら億劫だった。それから更にそんな中で、聞こえるのはよく分からない幻聴だ。
──どうして、お前だけが生きてるんだ。
──なんで、死んだのが私だったの。
──お前が、死ねば良かったのに。
暗闇の中から這い出てくるようなその声は、少年の心を意図も容易く蝕んでいった。摩耗する心と、衰弱していく身体。次に目を閉じたら再び開けられるか分からない恐怖。いつまで、続くかも分からない無限の地獄。暗闇の恐怖は拷問に使われる一種だと知るよしもなく、それは当たり前のように精神を崩壊させるには十分で。
それでも──それでも。どうしても、少年は死にたくは、無かったのだ。
──ピピビ、と、聞こえる電子音にテオバルドは跳ね起きる。慌てて時間を確認すれば、時刻はまだ余裕のあるものだった。
安心したように息を吐いて、それから一度伸びをする。
20年前に関わりの深い事件を解決したと言っても、まだ、夢は見ていたし暗く狭い場所は相変わらず怖かった。長くいればどくどくと心臓は早鐘を打つし、止まらない冷や汗は酷い時には過呼吸を引き起こす時もある。
闇から聞こえてくる怨念のような声。少し前の自分には、ただ自分を責める要因にしかならなかったそれには、しかし今では──少しだけ、考え方は変わっていた。
だって、自分は、生きたかったのだ。そう、知った。他の誰でもなく、自分が生きたかった。そう望んだ。望んだのは、父でも母でもない、自分だ。
だからなのだと、納得した。自分は生きたかった。あの頃の小さかった自分は、確かに生きたかったのだと。それがわかって、少しだけ吹っ切れたとも言うのだろうか。
死んだ身であるにも関わらず、それでも尚生を求めた自分の貪欲さに、自分ながらに笑えてきたのかもしれない。
思わずくすくすと思い出して笑っていれば、ふと窓から鳥が羽ばたいているのが見えた。それを見て、それから──やっぱり少し、テオバルドは頬を緩めた。
「…あと、5年。………短い、なあ。いや、長いのかな」
5年後だとしたら、自分は32歳だ。自身が三十路になっている姿はあまり想像がつかない。だとしたら、存外長いのかもしれないなと少しだけ息を吐く。
「…あーあ。……追いつけるかな、5年で」
先輩達の姿を思い浮かべて苦笑する。遠い背中だ。まだ、自分にはきっと追いつけない。もっとも、尊敬する先輩達にすぐに追いつけるとも思っていないのだけれど。
何かを口に出そうとして、口を開いて──それから、しかしその口から意味のある言葉は発せられずにそのまま閉じた。自身の手が、震えている事に気づいてしまったのだ。馬鹿だなと自嘲する。これを決めたのは自分だ。死人の分際で、死ぬのが怖いだなんて笑わせる。
それでも。死にたくなかったのは、嘘じゃない。死んで尚、生きることを求めたのは嘘じゃない。
だから、と。テオバルドは再び空を見上げる。今度はしっかりと、口を開いて。それから。
「…やっぱ、死にたく、ねえなあ!」
カラカラと、その言葉とは裏腹に、その事実を確かに受け止めながら。
大人になった少年は、快活に笑ったのだった。