日常
目を、開ける。瞬間的にヒュウと喉が勢いよく鳴った。次いで込み上がる胃液の感覚。ぐっと一度飲み込んで、それからトイレへと走った。
「っは、ゲホッ…っ、ぇ、あー…ごほっ…」
胃酸が喉を焼く。昨日の飲み会では量も食べてしまったためこうなる事は予め分かっていたが、それでも出してくれたものをこうして戻してしまう事には罪悪感が湧く。
全て吐き出して、息を吐く。胃の中からたとえ全てのものが消えたとしても、もちろんすっきりする事は無く。
「あ"ー…くそ」
悪態をつく。手には夢でこびりついた血が付いているようだった。
──あれからずっと、毎日欠かさず夢を見続けている。自身の恋人が惨殺される夢。それを見ながらも何もできない自分。そして、その犯人を自分が殺す夢。
暗闇の中で行われるその行為。自分が犯人を殺したところでふと手を見てしまえばそれは当たり前のように血がこびりついていて。ふと、前を見れば──最愛の死体だけがある。それならば、この血は一体誰の血だ。自分は、一体誰を殺した?
それを自覚した途端に、毎朝跳ね起きるように起床時間となっていた。毎晩、毎晩、飽きる事なく、その夢は男を蝕む。それでも男は幸いな事に、それを耐えるだけの精神力と体力を兼ね備えていた。そう。──幸いな、ことに。
ぐっと息を呑んで、水を流す。毎朝のことだが、起きた瞬間が一番疲労感があるような気がする。
「…涼」
返ってこない呼び掛けを、あの日から一体何度繰り返しただろうか。その度に打ちひしがれるのだから、言わなければいいのだ。しかしそれでも、その度に、思い出す。思い出す事に、鮮明に思い出せることに安堵するのだから、瀬基は止められなかった。忘れるものかと、拳を握る。時の流れでこの感情を風化させてなるものか。忘れないためなら、幾らだって、何度だって悪夢を見よう。幾らでも。自身が擦り切れるまで。否、擦り切れても。
彼女はもういない。30年以上共に過ごした彼女は、あの日から動かない。それを許した。許してしまった。間に合わなかった。その前後の記憶の曖昧すらも許して。
ぶち、と、手の中で肌が破れる音がした。それにはたとして手のひらを見る。破けたそれは血が滴り、トイレの中に落ちて行く。
かぶりを振って立ち上がる。この程度なら放っておけばいいが、それよりも口の中が気持ち悪い。水ですすいでしまおうと台所へ向かった。
息を、吐く。流し台に手をついて、体から全ての空気を出すように。
ふと壁にかかる時計を見れば、もう朝食を作り出す時間だった。慣れた手つきで冷蔵庫を開け、半ば無意識で簡単に朝食を作る。
出来上がったそれをテーブルに並べる。湯気が立ち、香りがたつそれは一般的には「美味しそう」と言われるものだろう。それを見て、しかし男は眉を寄せる。食欲は全くと言っていいほど無かった。
「飯は、食わねえと、死ぬ」
当たり前のそれを、口に出して再確認する。椅子に座り、手を合わせる。気乗りしないままにそれを義務的に口に放り込んだ。
何を食べても味がしない。暖かいか冷たいかしか認識ができない。今毒を盛られたらアウトだなあと皮肉げに口を歪め「笑えねえな」と舌を打つ。
一定のスピードで食事を終え、出勤の準備を始める。チェーンに通した指輪を握りしめ、棚に置かれた写真に向かって「行ってきます」と言葉を落とした。
零課のオフィスにはまだ誰も来ていない。それもいつも通りだった。窓付近におかれた緑に、霧吹きで水をやる。相模原が生きていた頃は彼女が進んで行っていたそれは、今や愛でるものは誰もいない。それだからだろうか。事件後、小豆は植物を全て処分しようとしていた。それを止めたのは紛れもなく瀬基だ。「まだ元気なのに、流石に可哀想でしょう」だなんて尤もらしい言葉を吐いて。
そうして植物の世話をしていれば、暫くすればオフィスのドアが開く。瀬基の次に来るのはいつも小豆であった。
「おはようございます」
「おはよ〜」
ひらひらと手を振る瀬基に、小豆は軽く頭を下げる。植物に水をやる瀬基を見て、ほんの一瞬だけ小豆は目を逸らした。目敏くそれを見るものの、瀬基はそれに何も言わずに水やりを終える。
暫く時間が過ぎれば、朝倉、火澄もオフィスに顔を出す。賑やかになっていくオフィス。解決した事件をまとめ、山積みの未解決事件の書類を取り出した。
報告書を持ち立ち上がる。上に提出するものであるため、この役割は毎回瀬基が一任していた。
堅苦しい報告をそのまま口にする。零課という特殊な課であっても警察署の中の課である事には変わりない。
義務的に終わらせ、部屋を出て息を吐く。軽く首に手を叩き、零課へ戻ろうと踵を返した。
コツコツと廊下に足音を響かせる。男を見て僅かに身を引く者、立ち止まる者。反応は様々だった。男にとってはもはや当たり前のそれに何を思うわけでもなく、くありと欠伸を噛み殺しながら歩く。
曲がり角、丁度元上司である的場と鉢合わせ、目を瞬く。行き先が途中まで同じだというそれに、隣に並んで歩いた。
何気ない話。最近はどうだ。また厄介な事件が。そういえばこの前。三課の新人が。新しくできた居酒屋の。的場との話は基本的に穏やかに流れる。話の内容は兎も角、尊敬する上司との会話に瀬基は僅かに肩を落とした。
そうして、暫く。的場の空気が僅かに張り詰める。その緊張感を如実に感じ取った瀬基は一度ゆるりと瞬きをした。あぁ、と、思う。
「瀬基、お前は今、どこまで調べがついてる?」
何の話かだなんて。そんな事言われなくてもわかった。今、瀬基はその為に生きている。
細く息を吐く。こうして自分が去った後も面倒を見ようとしてくれる的場には、瀬基も感謝していた。
「そう、ですね。今は──」
──警察内部に、犯人がいるのではないかと。
「すみません。まだ何も」
え、と。ほんのわずかに目を見開く。些細なそれは、隣を歩く的場には気づかれていないようだった。
今、自分は何と口にした?
「あぁ、そうか。……まあ、それも仕方ないさ。焦るなよ」
「……」
「瀬基?」
「あ、すみません。……その。不甲斐、なくて」
は、と自嘲するように吐き出せば、的場は苦笑して瀬基の背中を叩いた。
「そんな事はないさ。お前はもちろん、あいつらも良くやってる」
的場の続く言葉に、瀬基は苦笑する。苦笑しながら、今自分が口にした言葉を頭の中で繰り返した。曲がり角で的場と別れ、瀬基は零課のオフィスへと足を向けながら先程の事を思い出す。
まだ、何も? 分かっていることはあるだろう。内部に犯人がいる可能性が高いこと。そして他にもある。様々な物をまとめた資料だって用意している。それなのに、何故、自分は。
「──っつ、いってぇ…」
瞬間、頭に鋭い痛みが走る。酷い頭痛だ。寝不足からのものでは無さそうだが、ズキンズキンと走るそれに思考が横に飛ぶ。
しばらくすれば治ったそれに、緩くかぶりを振る。
それから息を吐き、とんとんと眉間に指を当てる。痛みは感じなくなった。
それに、しても。何故、さっき自分は口をつぐんだのだ。流れるように吐いたのは、偽りの言葉である。
そこまで考えてハッと吐き捨てる。何故、だなんて。そんなもの。
(……全くもって、嫌になるな自分の性格が)
慕っている上司も、信頼できる部下も、全部が敵に見える。否、敵だと認識しないといけない。味方だと証明するためには、疑わないといけないのだ。
舌を打つ。そうでなければいい。頼むから、頼むから。どうか。──仲間に向けるために、仲間の命を奪うために、自分は拳銃の腕を磨いたわけではないのだから。
コツコツと足音を立てて零課へと戻る。オフィスに入れば、そこには朝倉と火澄がいる。小豆の姿は見当たらない。書類の整理でもしているのだろうか。瀬基が戻った事に気がついた二人は、そちらに顔を向けて顔を崩す。
何気ない、日常の光景だった。
「あ、おかえりなさーい」
「チーフ? 早かったですね」
「……朝倉、火澄」
「え、は、はい!」
「は、い…?」
いつもの敬称がないその呼びかけに、知らずに朝倉と火澄の背筋が伸びる。そのまま、瀬基は二人をじっと見た。無言のまま、数秒。妙な緊張が漂うその空気の中、ふと、瀬基は肩の力を抜くように息を吐いた。
「チーフ?」
「はは、いや〜? 何でもないわ。ふふ、びっくりした?」
「えっ、な、なんすか…!?」
ぱちんと片目を閉じる上司に部下は動揺を見せる。「なぁんでも無いわよ」語尾にハートが付きそうなほど甘ったるく言葉を続ける上司に、二人はええと身を引いた。
二人が脈略のない意味のわからないそれに身を引いていれば、ガチャリと音を立ててドアが開く。そちらに三人が目をやれば、そこにいたのは小豆だった。全員の視線が集まるそれに小豆は一瞬だけ動きを止める。
「…なんですか?」
「小豆さん! 丁度いいところに!」
朝倉が小豆に駆け寄る。サッと自分よりも随分と低いその背後に身を寄せ、ぐいと瀬基に寄せた。それに訝しみ何だと声をかける小豆に、火澄は肩を落としながら口を開く。
「いや、なんかチーフ変なんすよ…」
「は? いつもの事でしょう」
「ねえねえ小豆ちゃん。あんた私のこと嫌いなの?」
オフィスはまた騒がしくなる。開いた窓から風が入り、そうしてふわりと香るのは、窓の近くに置かれたマーガレットの香りだった。