花冷えの獣

「いい香りですね」

 砂糖菓子が転がるように小さく音が鳴る。その音が、自分に掛かっていると最初は認識出来ずに男は一度目を瞬かせた。
 休日の、午後四時。ほんのりと橙が滲んだ青空に、薄く雲が伸びている。たまに聞こえる鳥の歌声だけがBGMになるこの空間。ここは男の家から少し離れた公園だった。公園と言っても、遊具は一つもない。ただ、ベンチが一つそこにはあって、花壇に植えられた小さな花がぽつぽつと色を取っているだけの小さな空間だ。子供は勿論、大半の人間にとってとてもつまらないであろう空間は、しかしこの男にとっては居心地のいい場所であった。
 目を瞬かせて、しかし同時に思い出す。さっきまでここには自分だけしかいなかったはずだ。思い至って、それから。ゆっくりとした動作で男は顔を上げた。

「花の匂い。香水ですか?」
「…え、あ……まあ」

 頷く。男の目の前にいたのは一人の見知らぬ女性だった。女性は、男が顔を上げると同時ににこりと微笑む。くいと僅かに距離を詰めて、女性は今一度鼻をすんと鳴らした。男は思わずたじろぐ。

「………あ…あの……近い…」
「……あっ、すみません!」

 はたと、飛び跳ねるように女性は距離を取る。またやっちゃった…と目を伏せて肩を落とす女性に眉を垂らした。こんな事を頻繁にするのだろうか。妙齢の女性にしては、あまりにも危機感が薄い。他人事ではあるが、男は少しだけ心配になった。

「すみません、えーと、私、怪しいものじゃなくて…」
「…はあ」
「その、とってもいい香りだったから、思わず…?」

 女性は慌てて手を振る。眉を寄せて、申し訳なさそうにする姿はどこか微笑ましさすら感じた。男は口元を滲ませながら肩を上げる。

「おれは、大丈夫です。…でも、こういうのはあんまりやらない方がいいかも」
「え! や、やりませんよ! 普段はもっと…多少は…ちゃんとしてます!」

 むん、と拳を作る女性に、男は知らずに頬が緩んだ。年齢は男と同じくらいだろうか。それにしては、どこか幼さを感じさせる女性である。薄い紫色の髪をふわりと揺らした彼女は、男が笑ったことに気が付いたのだろう。自身が笑われたというのに怒る様子は欠片も見せずに、同じようにその女性も笑った。

「なんの花の香水なんですか?」
「え」
「それ。貴方の付けてる香水」

 ちょんちょんと指を揺らした女性は首を傾げる。その問いに、男はああと声を漏らす。香水。目を逸らして、一度だけ唾液を喉に通した。
 花の香水。男が、自身にそれを付けているのは間違いではない。しかし、自分がようやくほんのりと分かる程度の分量は、今まで他の誰かに気付かれた事はなかった。──気付かれたくも、無かった。
 それは呪いで、病気で、個性で。あの、暖かくて寂しい空間を生きた自分を忘れないように、ただ、思い出を常に滲ませるためだけに付けているものだった。
 だから、言いたくは無かった。気付かれたとしたら尚更。他の誰かに、この香りの名前を知られたいとは、どうしても思えなかった。男は押し黙る。何と言って誤魔化そう。目を、一度揺らすように波打たせて、視界から彼女を取り出した。

「…あ、言えないなら大丈夫ですよ! 香水って、名前とか何の花とか忘れちゃいますよね」
「──」

 その声に、男はまた女性を視界に映した。男と目が合うと、へらりと女性は顔を崩す。その表情に、何故か、本当にどうしてだか、男は酷く焦燥感にも似た何かを抱いた。知らずに──口が、動く。

「カランコエ」
「へ?」
「この香水の話。カランコエの香水。…自分で作ってる」

 女性は目を瞬かせる。しかし次の瞬間には、太陽のように微笑んで「カランコエ!」と嬉しそうに声に出した。ころんと金平糖が転がるように、どこか甘さを滲ませたその音に、思わず男は目を見開く。「カランコエ。カランコエかあ」嬉しそうに、女性は花の名前を何度も口にする。うんうんと頷きながら、確かめるように声を落として、まるでスキップをするかのように男に向き直った。

「いいですね、私、カランコエ大好きなんです」
「……」
「理由は特に無いんですけど。でも、一番好きな花」

 笑う。笑う。その表情は、あまりにも嬉しそうで、あまりにも楽しそうで。見ている男が思わず声を失うほど、その笑顔には花が咲いていた。
 知らずに、男は手を伸ばす。笑う彼女に向かって、手を伸ばす。しかし、その指が彼女に触れる前に、遠くから弾けた音がその場に届いた。

「あ、こんなところにいた!」

 おーい、と遠くから聞こえる声に、二人は同時に音の方へと目を向ける。そこにいたのは同じ歳くらいの二人の女性だった。その二人を目に映すと、目の前の女性は「ありゃ…」と気の抜けた声を漏らす。
 ぶんぶんと手を振る二人の女性に、薄い紫を纏った女性は口元に手を寄せ、手をメガホン代わりにさせてから「ごめんね、今いくー!」と音を響かせる。
 女性は男に振り返る。ぺこりと頭を下げて「すみませんでした。私、もう行きますね」と破顔させてから女性は踵を返した。タッタ、と、女性が男に背中を向けて軽やかに駆けていく。瞬きを一つ。それから、ほんの少しだけ男は目を細めた。

「もう、早くしないと始まる時間遅れるんだよ!」
「ごめん〜!」

 遠くから、女性たちの賑やかな声がする。その声を聞いて、男は目を伏せた。自分もそろそろ帰ろう。何故だか気持ちがざわついて、しかし、それと同時に酷く優しく落ち着いていた。相反するはずの感情が、ざわざわと胸の中を泳いでいる。

「も〜コロンは本当にそそっかしいなあ」

 ──目を、開く。見開く。男は、はくりと唇が声もなく震えた。咄嗟に振り返る。角を曲がったのだろうか、女性たちの姿はもうそこになく、しかし反射的に男はその透明な背中を追いかけた。走る。走って、角を曲がる。瞬間、ガヤガヤと賑やかな大通りに出た。は、と肩で息をする。あたりを見渡しても、どこにも先程の女性は見当たらない。人混みに紛れてしまったのだろうか。姿が見えずとも駆け出さずにはいられなくて、男は足を動かした。
 しかし、どこを探しても見当たらない。後ろ姿だって見当たらなかった。
 ぐ、と、硬い唾液を無理矢理喉に通す。ツンと少しだけ鼻の奥が痛くなって、それを誤魔化すようにかぶりを振った。

「………ころん」

 舌で転がすように、口の中でその名前が滲んで溶けていく。コロン、コロン。唇を噛む。きつく、かたく噛んで、ぷちりと軽く弾ける音がした。あ、と思う間もなく、口の中に錆びた味が広がる。
 思わず、自嘲するように頬が緩む。あの時は、一度だって呼べなかったくせに。
 空を見上げれば、すでに空は全てが橙色に染まっていて。奥から紫の闇が滲んでいる。闇を優しく紅茶で溶かしたようなその色は、彼女の瞳の色とよく似ている。息が漏れて、その吐息が僅かに震えている事を自覚した。自覚、したけれど。男は苦笑するように肩を落として目を伏せた。見て見ぬふりは簡単だった。そして、とても苦しくて、同時にとても楽だった。
 ころん。口の中で、男はそれを音もなく溶かす。もう一度空の色を目に映して、男は黄色い瞳を閉ざした。

 今日が、終わる。明日もまた、君はいない。






──────

「コロン? どうしたの?」

 立ち止まった友人を、一人の女性が気付いて振り返る。そこには、何故か顔を後ろに向かせてじっと立ち止まる友人の姿があった。「コロン〜?」声を掛ける。何度目かの呼びかけに、ようやく彼女は気付いたようで。ハッと肩を揺らしてようやく前を見た。

「あ…ご、ごめんね。ちょっと…何か聞こえた気がして」
「何か? そりゃ聞こえるでしょ、街中だよここ」

 さっきまで彼女がいたあの静かな裏路地の公園ならいざ知らず。ここは人の通りが多い大通りである。何かというなら何でも聞こえるだろう。人の声、店から聞こえるラジオの声、液晶から漏れる人工的な声、僅かに聞こえる鳥の声。呆れたようにそう声を落とせば、彼女は眉を垂らしてへらりと笑った。

「そう、だよね。うん。その通りだ。…そうだよねえ」

 うんうん、と、まるで納得していないソレを無理矢理納得させるように、その女性は頷く。そうして今一度、後ろを振り返って、三秒。何て事ないその大通りの景色を視界に映して、小さく、息を吐く。トントンと、こめかみを指で弾いて、それからかぶりを振った。

「ごめん。へへ、早く行こっか! なんかお腹も空いてきちゃった。甘いもの食べたいなあ」
「うーわ、出たよ、コロンの甘いもの好き」

 うげえと顔を顰める一人の女性に、コロンと呼ばれた少女はえへへと歯を見せて笑った。

「甘いものは甘ければ甘いほど美味しいんだよ!」

 嬉しそうに、幸せそうに。少女はただ、柔らかに笑った。

エンド5。味わい深い