マウント
特別、男は自分が経験豊富だとは思っていない。
ふわりと目の前で白く煙が燻る。あまり好んではいないその煙は、ゆっくりと自身の肺の中を燻りじわじわと侵していく。この感覚が好きな人間も多いのだろう。かくいう胡桃も、別段嫌いというわけではない。ない、のだが。
「…ふー、」
「ん、もう一本吸う?」
「や、もう十分っす」
上体を倒してそう聞いてくる男に、胡桃はへら、と笑って断りを入れる。そもそも煙草を自分から吸う人間でもないのだ。付き合いで吸う程度である。
そう、付き合いだ。つまり今もその状況であるということで。
煙が揺らめく。冷えた空気も同じように肺に吸い込めば、身体に染み込むような感覚がして僅かに息を落とした。早く戻りたい。ちらりと相手の男を見れば、煙を美味しそうに身体に入れている様子が見えて。
気付かれない程度に肩を落とす。どうやら先はまだ長いようだ。
「あー、君そういや耀とバディなんだよな」
「…あー、津雲ですか。まあ、そうすね。世話になってます」
ふと、ぴくりと瞼が動く。やはりその話題が来るかと静かに息を吐いた。分かっていた話題に軽く目を細めて答えれば、男はまたカラカラと笑う。
「はは、オレそれと昔付き合っててさあ。いやー、でも知ってる? 耀、女として完全に終わってて。アッチの方最悪なんだよな」
「……」
「刑事のバディは大丈夫なのかね。まあ女として接しなかったら平気なのか」
つらつらと出てくる話題にまた煙を吸い込む。吸い込んで、吸い込んで。それから吐いて。いっそ殴り飛ばしてやろうかという暴力的な思考を、どうにかその苦みで押さえ付けた。
男と会ったのは偶然だったし、会いたいとも思っていなかった。彼女が行為中に吐露するマイナスな思考は、必ず過去に起因していると理解していたのだから。
不感症だと悩んでいる女に働く行為ではない。ショック療法だとも言いたいのか。
ふつふつと、澱が溜まっていく。それでもそれを外に出すわけにはいかず。自分は刑事である。それを忘れて行動はできないだろう。
一度煙草の吸い殻を、灰皿にトンと落とす。存外冷えている心に、自分自身で自嘲した。
「…まあ、耀。すぐ溶けますしね」
「ん?」
「ほら、普通にキスしただけでふにゃふにゃになるじゃないすか。気持ちよくて堪らないみたいな顔しながら。…いや、キスどころか耳元で喋るだけで」
「え、耀? …てか君ら付き合ってんの?」
「いえ? でも、俺が抱くと上手いからずっと感じちゃうらしいんで。…たしかに、女としてはまずいかもしんないすね。あんなの言われたら毎回抱き潰してしまう」
指で短くなった煙草を遊ばせながら、くっと片目を細める。何度も何度も言われた言葉だ。「胡桃くんが上手だから」「こんなんじゃなかった」顔を赤らめながら息を途切れさせて、女の顔をしながらそんな事を言われれば男は誰しも欲情するだろう。それが演技でもなく本心から言ってるのだからまたタチが悪い。
──本当に、上手い、わけじゃないと思うのだが。
ふうと、胡桃はまた息を落とす。たしかに下手ではないのだろう。その行為は好きだし、定期的に会う女性たちも満足しているのは分かっている。そもそも満足していなかったら次はないのだから。
だから、下手ではないのだろう。それはいい。それでも、ただ優しく触れただけで腰を震わす彼女に足りていなかったのは行為というよりも言葉だ。
「触ったらすぐ濡れて、2人になった途端に溶けた女の顔するんだから。こっちも男にならざるを得ないですよねえ。はは、昔からそうだったんですね、あいつ」
彼女の夜の事情を他の男に話すのすら濁りを飲んでいる気分になるが、それでも敢えて、男は笑って口にする。
「喘ぎ声も可愛いし、真っ赤に溶けた顔で、もっとってせがんで、早く挿れてって懇願されて我慢できる男いないですよね」
行為中の彼女を思い出すだけで、少しばかり疼く。女としてだろうがなんだろうが、男にしてみれば彼女は唯一である。
目を瞬かせている男に、胡桃はまた笑う。つらつらと出る言葉に温度はないが、不思議と言葉は途切れることはなかった。
「ああでも、昔、随分下手な男に会ったみたいで。不感症かも〜とかは言ってたような…?」
下手な相槌を打つ男に、ふと息を吐く。溜飲が下がる事はないが、あまりこの男に彼女のことを話したくもなかった。
それからどれだけ時間が経っただろうか。スマホの着信音で意識が横に逸れる。どうやら噂の彼女のようで、もうすぐ合流できるとの旨だった。ここにいることは伝えているため、もうすぐここに来てしまうのだろう。流石に会わせたくもないし、と。軽く挨拶をして踵を返そうとすれば。
「……あ」
そんな声で、誰がそこにいるのかすぐに分かった。舌打ちを噛み殺し、また笑って向き直る。
「悪い。早かったな」
「……あ、うん。すぐそこだったから」
「そか」
そちらに足を運んで、彼女の視界から男を消す。見せたくはなかったのだが、見てしまったのなら早く立ち去ったほうがいいだろう。体格差の分、彼女の前に立てば彼女の視界はそれだけで閉ざされる。後ろをちらりと振り返れば、何か言いたそうな男の顔が目に入った。
男が口を開いて、何かを言おうと息を吸い込んだ時。胡桃は彼女の耳元にするりと唇を寄せる。
「…帰ったら、抱かせて」
「…っ、」
「お願い、可愛く溶けてる耀、すげー見たい。…だめ?」
「な、なんで、急に…!」
耳元に寄せて息を吐くように言葉を投げれば、一気に彼女の顔は赤くなる。そうだ。こうして言葉を投げるだけで目を溶けさせるというのに。
一瞬だけ男の方をチラリと見れば、驚いたように目を見開いているのが見えた。あぁ、そうだ。お前が雑に扱った女はこれだけ魅力的なのだと僅かに目を細めさせる。
逃がした魚は大きいことを、きちんと思い知ればいいのだ。
それからパッと距離を取って、普段通りに笑い彼女の頭をわしゃりと撫でて下を向かせる。一瞬だけ見させればそれでいい。これ以上は自分だけが知っていればそれで。
「帰ろ、耀。ご飯食べて。…今日は早めに寝よっか」
「…ね、寝る、寝る…?」
「ん。…一緒に、な?」
くすりと笑えば、彼女の顔にはまたぶわりと熱が集まる。単純明快で分かりやすい。手をゆっくりと絡ませて、指の間を撫でる。ひくんひくんと跳ねさせる身体に、また目を細めて。そのまま手を引いてその場を後にした。
多分滅茶苦茶優しく抱く。クリスマスだものね。