怪物


 どうしたものか、と。縷々は内心息を吐く。
 否、この場合、その思考は無意味だろう。縷々は横に並んで自身の家に向かおうとしている男にちらりと目を向ける。目線を受けてる事を分かっているのかいないのか、男はいつもよりも少し重い足取りで歩いていた。
 厄介な事になった、と思ったのは正直な感想だ。自分の──この場合公安である自分の──生活スペースに、まさか誰かを入れる事になるとは思っていなかった。それも、ほぼ初対面の相手である。入間に言ったら呆れられそうだなと、口の中で舌を出した。
 兎桐縷々という男は、そういう意味ではお人好しであった。根本的に、困っている人間をああそうですかと素知らぬ顔が出来る人間ではない。そもそもが刑事だ。そう簡単に見捨てられたら刑事などとうに辞めているだろう。
 しかし、それでも、仲間の刑事であれど、明確に一線を引いていたのは事実だ。自分をあんなにも慕う真ノ宮でさえ、男は本音で話したことはないのだから。

 コンビニで一通りの一式を揃える。表面上、あくまでも久々に誰かと過ごすことが楽しみだと浮き足立たせながら、自身の部屋の様子を思い出しどう誤魔化すか考えていた。
 引っ越してきたばかりで物がない。先程そう言った自身の家は、その実もう数年は住んでいる。ミニマリストというわけではないが、縷々は趣味を持つ事を控えていた。一課の縷々を知る人間が見れば、その殺風景な人間味のない部屋は酷く違和感を持って目に映るだろう。
 部屋に、誰かを入れるのは入間以来だ。現場から自分の家より縷々の家の方が近ければまるで我が家と言わんばかりに入ってくるあの男には、縷々は合鍵を呆れながらも渡している。
 男があまりにも殺風景なこの家によく分からない物を置いて帰るのも珍しくないため、殺風景なその部屋には所々に入間によって置かれたものも多くある。
 潜入捜査というわけでないため、家を他に借りなかったのは落ち度だ。その見通しの甘さを実感して舌を打ちたい気分である。これではまた入間に何を言われるか。

「これでいいのか」
「ん! あっはっは、わくどきお泊まりセットやね〜。ほんじゃ行こか」

 帰路を歩く。正真正銘帰路である。謎の多いこの男を、自分のスペースに入れる事は酷く心が落ち着かなかった。帰ったら一応入間にも連絡を入れておくかと、何度目かわからない溜息を飲み込んだ。



 夜。散々ベッドで寝る事を遠慮した男を寝る間にベッドに運び終えた縷々は、その寝息を聞いてようやく脱力したように大きく息を吐いた。
 風呂上がりでもゴーグルを付けようとしていた男に「汗疹出来んで」と呆れながら止め、食事を作り。至れり尽くせりで対応した自覚が一応はある。縷々にしてみれば、下手に行動してほしくないからという意識からでもあるのだが──それを言い訳に、ただ放って置けなかったのも事実で。寝息を立てる男にまた視線を移し、どうしたものかと頭を掻く。
 人付き合いが得意な方ではなさそうだった。ゴーグルをして目を隠しているのは、おそらく自身の心情を他者から隠すためだろう。職業柄、人の心情を伺う事には慣れているためそこは分かる。職業柄──否、それを勉強したのはもっと昔だ。自身の狂気に気付いた時から、半ばがむしゃらにその思考を頭に叩きつけた。それがこの職業では功を成しているというだけである。

「……面倒な事になったな」

 知らずに落とす言葉は、誰の耳にも入る事なく空気に沈む。自分の中にあるその狂気を知っている男は、何かを自分の内にいれる事を酷く嫌がった。唯一、それでも尚男の内に入っている相棒とは最近電話でしかやり取りをしていない。お互いに忙しい身であることは確かのため、それが特別珍しいというわけでもないのだが。
 いつもは自分が使っているベッドに身を沈める男に視線を投げる。ゴーグルを外した目の中にあったのは迷子のそれに等しい。それはまるで、昔の自分を見ているようで。
 馬鹿らしいとかぶりを振る。介入するのは良くない。深入りするのは良くない。公安である限り、家族にだって心を許すなというのは使命である。公安は──通常の警察とは違い、国民ではなく、国を一番に守るものなのだから。
 その時ふいに、縷々の携帯が鳴る。開いてみればメールであり、主は入間である。事件の進行具合や諸々。ラーメンを食べにいく、という名目は──今日は出来そうにないだろう。寝息を聞きながら、縷々は少しだけ苦笑した。

 透明の水の中に、墨汁を一滴垂らしたような。言いようもない不快感。今日は寝れるだろうか。最近、また夢が酷くなってきたように感じる。殺意の悪意は、しかし狂気となって好意の使命に感じる程だ。蝕まれている自覚はある。いつか、この狂気に呑み込まれてしまうのではないかという、漠然とした焦燥感。
 もし。自分が怪物になってしまったのなら。きっと自分の相棒は止めてくれるだろう。それでもその相棒は今はいない。皮肉にも、今一番近くにいるのは謎を多く残す、バディの男である。

「……──あぁ、でも」

 彼ならば、狂気に塗れてしまった自分を──殺してくれるのではないかと。そんな事を期待してしまう自分に、縷々はハッと自嘲した。
 死ぬつもりはないのだ。ただそれよりも、自分が犯罪者に──怪物に。なってしまったほうが。よっぽど怖いのである。
 瞼を静かに落とす。ただ、視界を閉ざすだけの行為は睡眠のためのものではない。それでも、視界を閉ざすだけで人間は80%程度の疲労は回復出来るのだ。ただ、目を閉じる。自身のテリトリーの中に誰かがいる違和感。悪夢の中の飢餓感。その全てを飲み込むように、ただ、男は目を閉じた。