香水


『火澄直衛、ね…。あー、あんた頭いいんだって?』
 初対面で、自身の頭の事について何かを言われる事は珍しくない。だから正直、この時もまたか、とすら火澄は思った。零課という特別な課に配属されても、やはり同じなのかと。
 しかしそれでも良かった。元々人付き合いは得意な方ではない。妹を中心に回る世界では、自分の事は全て後回しでも何の問題もなかったのだ。比較的自由に動き回れるこの課なら、もっと妹についての情報も集められるかと思った。
 だからその問いに、火澄は何も答えず、ただ瞬いた。何を言っても無駄だと経験上分かっていたからだ。分かってもらえなくてもいい。そんな事よりも、自分にはもっと大切なことがある。
 しかし、次にその男から続いた言葉は、火澄にとって少しばかり予想外な台詞だった。
『いいね、使えそう。頭が働く奴ならこっちは動きやすいよ。…あぁ、私は瀬基。よろしくねえ』
『…は、はあ……よろしくお願いします』
 に、と。まるで悪餓鬼のように笑みを浮かべるその男に、火澄は半ば呆気に取られるようにして頭を下げたのだった。

 カタカタと、自身のタイピングの音がオフィスに響く。音はそれだけだ。それもその筈、今この場にいるのは火澄ただ一人だった。徹夜まではいかないが、今日も今日とて零課は全員が忙しい。
 今の事件の資料をまとめて頭を整理する。こんなものだろうか、と、手を動かしながらふうと深呼吸するように大きく息を吸った。
 そうすれば、ふと、何故かじわりと記憶が滲み出す。

『火澄、これ分かる?』
『あ、ちょっと待ってください。今行きます』
 相模原の声に、区切りのいいところまで資料を纏めた火澄は席を立つ。ごめんねーと彼女の謝罪の声に、火澄は「いえ」とだけ声を出し、彼女が指差すその機械を見た。成程。配線が少し悪さをしているようだ。簡単に原因を見つけた火澄は、そのまま少し弄って直す。僅か五分ほどで直ったそれに、相模原はぱちぱちと軽く手を叩いて礼を言った。
『火澄は優しいねー。頭もいいし』
『優しくはないと思いますよ、別に普通です』
『頭がいいってとこを否定しないのがいいね』
 それは、まあ。はは、と目を逸らして苦笑する火澄に、相模原はふわりと笑う。その際、比較的近くに寄ったからだろうか、彼女からほのかに花の香りがした。知らずに『花…?』と口に出す火澄に、相模原はあぁ、と頬を掻く。
『今日ね、つけてるの。香水』
『へえ…』
『仕事柄あんまりこういうのはねー、ちょっとかなって思ってたんだけど。この前小豆に誘われて植物研究のサークルにお邪魔したんだけどね、その時そこの女の子から貰ってさ』
『小豆さんそんなサークル入ってるんですね。確かに色々詳しそうですけど』
 確かにこの零課には植物が何個か飾られてある。大半は相模原の持ち込んだものだが、世話をしている間に興味を持ったのだろうか。博識なあの人のことだし、特に何も違和感はない。何にせよ、確かに相模原と小豆が草木の話をしているのを何度かは聞いたことがあるような気がする。
『でもやっぱ目立つかな。明日からやめとくよ』
『え、いいんじゃないですか?』
 苦笑する相模原に、何故そう言ったのかは火澄も分からない。しかしそれは、ただの社交辞令ではないように思った。彼女はその言葉に少し驚きながらも、くすくすと楽しそうに笑ったのだった。

 カタ、と。思わず手を止める。物思いに耽ながら仕事するなんてらしくない事をした。
 首を回し、一つ息を吐く。疲労感が身体に溜まるが、しかし何かに没頭している間は色んな事を考えずにいられた。その点では、常に忙しい零課というのは有難い。
 コーヒーでも淹れようかと席を立とうとした時に、丁度オフィスの扉が開いた。
「ただいまあ〜あー…」
「あ、チーフ。お疲れ様です」
「んー、あれ、火澄一人?」
 小豆がもう帰ってると思ったけど。そう続ける瀬基は、そのまま荷物を置き書類を出した。今日の案件だろう。それを受け取り、軽く目を通す。流石に情報が多い。あとでまとめようとパラパラと全体的に確認していれば、瀬基がくるりとオフィスを見渡す。
「朝倉もまだか」
「……そう、ですね。見てないです」
「ふーん」
 今日直帰でもいいっつったし帰って来ないかもな。瀬基のその言葉に、無意識のうちに、ほんの少しだけ僅かに肩が降りる。それは少しの呼吸でも動く程度だと言うのに、瀬基はその様子をちらりと見たかと思えば大きく大きく息を吐いた。大き過ぎる溜息に、思わず瀬基の顔を見る。少し顔を上げた瀬基は、一度目を合わすと何かぼそりと呟きながら口を開けた。
「火澄さあ」
「何ですか?」
「朝倉とまだ喋ってねーの?」
「………喋っては、いますよ。喋ってるでしょう」
「はは、分かってるくせに」
 コンビニかどこかで買ってきたのだろう。徐に鞄から取り出し、自身に投げられた缶コーヒーを少し危なげながらも火澄は受け取る。よく見ればそれは加糖だ。そこからこれは自分用に買ってきてくれたのだという事も悟る。
 ぷしゅ、と。缶コーヒーの文字を追っていれば、オフィスに缶を開けた音が響く。瀬基も自分のコーヒーを開けたのだろう。飲む気分でもないが、なぜか先程よりも酷く喉が乾いていた。その理由も気付くと同時に分かってしまい、それを誤魔化すように火澄も缶を開ける。
 オフィスの近くにあるコンビニは、その利便性故に零課全員が利用する。そういえばこのコーヒーも、そのコンビニ限定のものだったなと喉に通しながら思い出した。
 飲み終わったのだろうか。ことりとデスクに空き缶を置いた瀬基は、滔々と言葉を落とす。
「お前が許せないのは朝倉よりも自分だろ」
「…は?」
「憎んでんのは朝倉かもしれないけどな。…憎まないといけない。妹を撃ったあいつを許していいはずがない。たとえ友人であっても…浅倉を許す自分が──許せない」
 スゥと、血の気が引くような感覚がした。ヒリヒリと、指先が冷えていく。咄嗟に否定的な言葉を言い募ろうとして、しかし口を開いても、出てくるのははくりとした空気だけだった。
 その様子を、瀬基は一瞥して、それからガシガシと頭を掻きながら息を吐く。
「難儀な性格してるよ本当に」
 まるでどうしようもない子供を見るかのように、瀬基は呟く。言葉とは裏腹に、それはどこか親しみを覚えるほど。それに視線を合わせられず、火澄は目を逸らしきゅうと缶コーヒーを強く握った。
 しばらく視線を逸らしていれば、苦笑する声が聞こえそれに促されるようにおずおずと視線を上げた。「仕方ねえ奴。お前も、あいつも…──」後半は上手く聞き取れず、火澄は僅かに眉を寄せる。聞かせるための独り言ではなかったのだろう。火澄の表情に瀬基はまた笑う。今度は楽しそうに、とても楽しそうに笑った。
 そうして、あ、と、瀬基は目を瞬く。忘れないうちに渡しておくと、また鞄から何か小箱を取り出しそれを火澄に投げた。今度は何なく受け取り、受け取ったそれを不思議そうに眺める。
「…なんですか、これ」
「香水。花のやつ」
「花…?」
「使わなくてもいいよ。でもまあ、持っとくならお前かなって」
「どういう…」
 訝しげに片目を細める。香水。そういえば、さっき思い出していた記憶も香水が関係していたなと何となく思い出した。
「相模原が、どっかの女の子から貰った香水だとよ」
「……──」
 その言葉に、はたと目を見開く。瞬間的に、さっきまでの記憶が再度ぶわりと膨れ上がった。小箱から僅かに滲む匂いが、あの時のそれと、よく似ているような気がする。
 まさか、と思う。そんな偶然があるはずがない。分かっているのに、火澄はただ目を見開いてしまった。言葉が続かない。そんな筈はないと分かりながらも、しかし僅かながらでもあるその可能性に、何も思わないほどまだ火澄は乗り越えられていないのだ。
 火澄の様子に瀬基は何も言わない。肩を少しだけ上げてから、一度伸びをした。
「じゃ、俺は本部行ってくるから。先帰ってていいぞ」
 おつかれ。と、ひらひらと手を振って瀬基はオフィスから出て行く。残された火澄は、その香水をきゅうと握った。こんなもの、どうすればいいのだ。香水なんて詳しくないし、今後も詳しくなる事はおそらくない。そもそも、これが元々誰のものかだって、ただの可能性としてあるだけで。九割九部違っている可能性の方が高いのに。
 そんな思考を入れ替わるように、オフィスに小豆が入ってきた。反射的に持っていた香水を隠そうとして、しかし目敏く小豆はそれを見つける。別段不思議なことでもないように、小豆は口を開いた。
「へえ、ライラックの香水ですか」
 振りかけてはないが、しかしほのかに香っていたからか、小豆はその花の名前まで当ててみせた。この香りはライラックというのか。花にはあまり詳しくないため、火澄は知らずに続きを促すように小豆に目線を向けていた。
「確か…花言葉は、友情、思い出、大切な友達…といったところですか」
「……」
「自分で買うのも勿論、友人に贈るプレゼントとしても人気ですよ。香りもクセのないものが多いですし。男女問わず人気って感じですね」
 小豆のその言葉に、返す言葉が見つからずに火澄は目を伏せる。ぽつりと「そう、ですか」とだけなんとか返して。手のひらのそれをまた見つめた。匂いというのは、一番忘れられないものだ。ぎゅうと、再度握りしめて胸元に寄せる。は、と、思わず笑い声のようなものをあげたのは、どんな心情からだったのか。
 自分自身でもあやふやなそれに、火澄は一つ、目を落とした。









ここからは〜〜〜蛇足。






「で、あれ本当ですか」
「なにが?」
 本部から帰ってきた瀬基は、オフィスに戻ってきていた小豆に唐突に言葉を投げられる。火澄はもう帰ったようで、帰ってきた頃にはすでにいなかった。
 ホワイトボードに情報を書き込みながら、瀬基は問われたそれを聞き返す。「分かってるでしょう」同じように、小豆も今日の成果をホワイトボードに書き込んでいく。互いに目線はホワイトボードだ。そのまま、小豆はさらに続ける。
「相模原さんから、そんな話は聞いてなかったので」
「あら、小豆ちゃんあんた私より相模原と仲良いってこと自覚済みなの!?」
「……」
「冗談だよ、睨むなって」
 目線だけをそちらに向ける小豆に、肩を上げる瀬基。そんな上司の様子に小豆は目を伏せ息を吐く。
「確かに香水はすぐに無くなるものでもないですが、あの香水、割といい値段するでしょう。そんなものを買って誰かにあげるような女性は、あのサークルにはいなかった気がしますが」
「お前一瞬でパッケージのロゴまで見たの? 怖いよもう…」
「茶化さないでください」
 腕を組み、小豆は更に言葉を続けた。
「貴方が朝、オフィスに一回同じようなものを振りかけてるのも知ってるんですよ」
 人は嗅覚に敏感だ。それこそ、ふいに香ればその時の記憶を呼び戻すほど。一番忘れず、深く記憶に染み込んでしまうそれは、聴覚よりも断然忘れにくい。
 この男がそんな事を知らないはずもなく、そして記憶力のいい火澄が思い出さないわけもない。
 どうなのだ、と、目線で促す。きゅ、とホワイトボードにインクを落とす音を響かせた後、瀬基はペンに蓋をして、ようやく小豆と目線を合わせた。
「さあ、どうかな」
 嘘とも本当とも取れるその答えを、瀬基はまるで悪戯を楽しむ少年のように笑って落とす。
 小豆が呆れたように溜息を吐く。この男の悪いところである。「面倒かけないでくださいよ」と言葉を落とせば、なんとも楽しそうな笑い声が響いた。
「かけてほしいくせに」
 じろり。冷たい目線を投げて、小豆は自身の上司の脛を蹴った。

例に漏れずすべて捏造