裏側
疑問は、なかった。この立場で生きること、自分の為すべきこと、立ち振る舞い、周りの人間、与えられるもの、手に出来ないもの。至るもの全部、アンタレスはそれに納得していたし、それが自身のすべきことなのだと理解していた。
自身が第二王子として生まれたその瞬間から、争いの種になることすら、理解していたのだ。
「兄様!」
まだ幾分と短い手足が地を蹴る。兄が公務の合間の休憩中、たまにチェスに付き合ってくれる時間をアンタレスは好んでいた。
兄はいつも穏やかで、そして何より賢かった。チェスは中々勝てないし、自国は勿論他国の情勢にも詳しい。歳の差を考えれば当たり前のことかもしれないが、たまに付き合ってくれる剣術だって同様だった。
兄が勉強する中、近くでそれを聞き兄の様子を見るのも好きだった。空気が澄んで、陽の光が兄の背に落ちて。小さな粒子さえ祝福のように光る様は、幼いアンタレスには幻想的にすら思えた。
──彼のように、なりたいと。
まだ物心ついて間もない頃から、弟は純粋にそう思っていたのだ。
だからこそ、彼の治める国が未来の我が国であることが誇らしかった。自身が第二王子である事がどのような事であるかも子供心ながら分かっていたため、わざと道楽に耽った事だってある。
たとえ比べられたとてそれでも良かった。好奇心が人一倍あったのは嘘ではないため、たまに宮殿を抜け出して街に出るのも好きだった。我が国が、今どんな情勢であるのかも知れたし、街の人々の様子を直に見れる事もアンタレスにとっては重要だったのだ。
自身が争いの種となる事は知っている。既に命を狙われた事だって少なくはない。自分を取り巻く環境の中、人の死はとても身近にあった。次はお前だと言われるように、死に間際の人間が自分を睨む瞳を見た時は流石に堪えたが。
それでも、それすら慣れてしまう程度には、自分の立場をよく理解しているつもりだったのだ。
そう。つもり、だった、のだ。
それを正しく理解していなかったのだと、その時はまだ知らなかった。
「ぁ……ゔ、……に、さま……」
掠れた声は喉から兄の掌に伝わって、まるで脈のように鼓動する。霞む視界で見えるのは、憎悪に染まる兄の姿だ。
見たことのない表情で、聞いたこともない声で呪詛を吐きながら自身の首を絞めるのは、本当に自身の兄なのか。信じたくないのに、息もできないほどの圧迫感、その首に感じる手のひらの熱、顔に僅かにかかる兄の透き通った白髪。そのどれもが彼が兄であることを証明していた。
どうして、なぜ。
──あなたは俺を、恨んでいたのですか。
チカチカと目の前に火花が散る。酸素が足りていなかった。それ以上に首の骨だって軋んでいる気がする。ビリビリと痺れる手足、輪郭を辿れない視界。抵抗しようにも身体で押さえつけられるように上に乗られてしまえば、そんなもの出来るはずもなかった。
自分は今、ここで死ぬのだと。そう嫌でも理解できてしまうくらいには確実に死に直面していた。
文字通り死ぬほど苦しいのに、兄の口から吐き出される言葉は嫌にはっきりと耳朶に響いて頭を犯していく。それが何よりも──自身の命が絶たれることよりも、アンタレスにとって正しい絶望だった。
そしてふと意識が落ちるその直前。かつ、と廊下から足音が聞こえた。瞬間離される手に、ヒュウと息が身体に通っていく。
身体は呼吸を求め、しかしうまく吸えずに咳き込む。視界が霞んでいるのは酸素が足りてないせいでもあり、生理的に浮かんでいる涙のせいでもあった。
ハールは一度廊下を見つめ、悪態をついてから再度アンタレスを見る。激しく咳き込んでいる自分の弟に、しかし向ける視線はどこまでも冷たい。
まるで助かったなとでも言わんばかりに冷めた目を向けるハールは、そのまま皮肉げに頬を上げてその場から立ち去った。
それはあまりにも一瞬の幕引きで、まるで今の出来事などただの挨拶だったとでも言うかのように。
「……っ、は、……げほっ、ゔ……」
1人になってからも何度か咳き込み、そしてその咳がおさまった後。ようやく現実感と共にぶわりと背筋が粟立った。ぼたぼたと汗がシーツに染み込んでいく。手触りのいいそれが、自身の汗でひどくベタついていくのが嫌に気持ち悪い。
吸い込んだ空気が妙に冷たく感じた。今の出来事が夢ではないと、その冷たさが告げているようで。
「……ぁ、……」
わずかに開いた口から、言葉にならない音が漏れる。あ、あ、あ、と、ただの母音の羅列。次いでガタガタと震え出す身体に咄嗟に口を押さえる。気を抜いたら叫び出してしまいそうだった。
それは紛れもなく──恐怖だった。
分かっていた。自分が命を常に狙われている立場なのだと。宮殿内に刺客が紛れ込むことは少ないが、それだって0ではない。人の命がいかに簡単に終わるかだなんて、そんなものずっと昔から知っていたのに。
目がまわる。世界がぐらぐらと揺れていた。気持ち悪い。気持ち悪い。霞む視界は何一つとして輪郭を辿らず、色はひどく褪せていた。
ぷつり、と。そのまま、アンタレスの意識は落ちた。
朝は平等に、あまりにも簡単にやってきた。
晴天。青空には白い雲がかかっており、鳥が羽ばたく。窓から見るその光景はとても希望に満ちていて、しかしいつもの空だった。
ぼんやりとそれを眺め、一つ瞬く。夢、だったのだろうか。否、きっと夢だったのだ。昨日は疲れていたのだろう。あんな、夢を見てしまうくらいには。
そう考えて、空を見ていた視線を少し下げる。視線を、下げて。
「……っ、ひゅ、……っ、っ」
息を吸おうとして、一瞬呼吸の方法を忘れた。かひゅかひゅと喉だけが無様に鳴って、慌てて喉に手を当ててなんとか呼吸を正そうとする。それでもままならないままに意識が途切れそうになって、唇を噛んでなんとか堪えた。
視線を、再度あげる。窓に映る自身の姿。毎日見ているものだ。窓に反射する自分自身と目が合って、その瞳に兄の面影を見た。瞳の色、兄の表情、食い込む指先、続かない息、痺れていく手足、声、息、視線、熱、──……。
「っ、っ、……っ、う、」
フラッシュバックするのは昨夜の記憶だ。その記憶が、痛みが、首の跡が、何よりも夢でないことを物語っていた。
食欲はなかった。それでも閉じこもっているわけにはいかない。半ば機械的に、アンタレスはいつも通りをいつも通りに行った。
いつも通り。着替えを済ませ、家臣に挨拶をして、朝食を食べ、それから、それから。
視界が褪せていく。色が無く、音だって水の膜を張っているようだった。しかしその方がまだ良かったのかもしれない。感情に蓋をしていれば、あの絶望を直視しないでいられた。夢のようだと、思えるのだから。
「アンタレス様」
──聞き慣れた、声だった。
決して大きくはないが、それでもまっすぐにアンタレスの耳朶に通る。2人分のその声は、顔を見ずとも誰かは分かった。
咄嗟に振り向いて、2人の顔を見て、口を開いて──息が、詰まる。
言葉を出そうとしたその時に浮かんだのは兄の顔だ。次いで溢れ出てくる思考。これを言ってどうなる? 言ったらどうなる? この優しい従者たちのことだ。たとえ兄であっても何かしらの行動をしてしまうかもしれない。兄は第一王子だ。そんな立場の人間に、第二王子である自分の従者が事を起こすとどうなるのか。分かりきっていた。そんなものは誰に言われなくとも分かりきっているのだ。
それに、もし。そうでなくたって。彼らが兄側の間者だったのなら──…。
「アンタレス様?」
「──、あ……」
「……どうしました? 体調でも優れませんか?」
ひくりと頬が一度だけ痙攣して、それから慌てて顔を正す。心配そうに見る従者たちの顔が何故だか直視できずに、満面の笑みで目を細めた。
今彼らはどんな顔をしているのだろう。心配そうに見つめるこの顔は、果たして本当だろうか。わからない。わからなかった。
だって、誰よりも尊敬していたあの兄でさえ。
「何でもないんだ。少し、夢見が悪かっただけで」
笑えと、自身に言い聞かせた。笑え、笑え。悟られるな。自分の思考を隠せ。敵は誰だ。見極めろ。信じるな。気を抜くな。
巡る。血が沸騰しているのかと思うくらいに頭が動いていた。
従者たちは首を傾ける。僅かに訝しんだようだが、しかし食い下がるほどでもないようだった。
「夢ですかー……こういう場合医者…? でいいのか?」
「夢見とかであれば賢者の方がいい気はするけど。でもそれで体調まで悪くなる可能性があるなら医者の方がいいか…。アンタレス様、少し待てます?」
「あぁ、いや、本当に大したことではない。夢の話だ。……それに、もう忘れかけているくらいだしな」
だから大丈夫だと笑う。そうだ。大したことはない。
ただ、知っただけなのだ。元々そうであったものを、今さらに実感しただけだった。
──世界とは、ここまで暗闇で満ちていたのだと。