日常


 常にそこにいたのだ。前に、隣に。時には後ろに。
 だと言うのに、どこにいたって捕まらない。だから多分、不満が募るのだ。それを言葉にすることすら無意な空虚感に苛まれるということに気付いてからは、飲み込むことだって覚えた。



「……い、こら。京吾、起きなさい」

 瞬きを二度。思わずガバリと跳ね起きれば、似た顔は自身の頭を避けるようにスッと横に傾けていた。「危ないなあ」と嘯く百日は、まるで危なげなく肩を竦めて息を吐く。
 何か夢を見ていた気がする。そしてそれが、あまり気分のいいものだったということだけは、僅かに息切れのしている自分が証明していた。
 まだ息が整えられていないまま軽く額を拭えば、一本の光る短い毛が手に移る。そこでようやく悪夢の正体に合点して、カーペットの上で呑気に毛繕いをしている愛猫に目を向けた。

「あは、ジョセに罪はないからねえ」

 京吾の視線を追ったのか、百日は楽しそうに笑ってから飼い猫を抱き上げる。みょんと伸びる胴ごと腕におさめれば、愛猫はなあんと甘えるように百日に擦り寄った。「分かってますよ」溜息混じりに言葉を落として、それから壁にかけられた時計を見た。
 まだ昼前だ。朝起きてから掃除をして、休憩をしていたらいつの間にか寝てしまっていたのだろう。今日は依頼もないため、しばらく出来ていなかった掃除や書類整理をしようと意気込んでいたのだが。
 どこかに一つ決まった事務所を構えているわけではないため、個人の探偵の依頼でありがちな猫探しや不倫調査は少なく、それこそ依頼で全国に行くことも多い。それでも確かに居住地も兼ねているため、長期の依頼から戻った後は事務所を片付けないとやはり埃っぽいのだ。

「で。やっぱり君、疲れているでしょう。体調悪いなら寝ていなさいと言ったはずだけれどね」
「……疲れてはないです。最近少し眠れないだけで」
「それを疲れていると人は言うんだよ。ほら、ちゃんとベッドがあるんだからソファじゃなくそっちで寝なさい」

 猫の前足を掴んでしっしと動かす百日にじとりと目を向ける。そもそも書類整理を頼んできたのは百日である。
 疲れていないのは本当であるし、何より書類が溜まっているのも嘘では──と、周囲を見渡し目を瞬かせる。
 ない。寝る前に整理をしようとしていたものが、すでにそこには無くなっていた。じとりとした視線を百日に向けるが、しかしどこ吹く風のように軽くあしらわれてしまうだけである。

「ほら、悩みの種は無くなったでしょう」
「……仕事、取らないでくださいよ……」

 ぶつぶつと口から文句が溢れていくが、それを素直に聞いてくれる相手では勿論ない。自分に与えられた仕事は基本的には自分でしたいというのは本音ではあるが、それを親である百日がわかっていないはずもなく。ただ子供の文句は自分の口の中でもごもごと暴れるだけであった。






 コーヒーの、香り。本日朝一番に鼻に通ったのはそんな目が少し覚めるような匂いだった。
 何度か瞬きをして目を擦る。あのあと結局仕事を取り上げられ、部屋に戻ってからは朝まで眠ってしまっていたらしい。驚くほど冴えた頭は、いかに睡眠が大切であるかを物語っているようだった。
 シャツに腕を通し、カーテンを開ける。いい朝だった。雲ひとつない晴天にちょうどいい気温。風は緩く吹いているようで、近くの家で洗濯物が揺らめいているのが見えた。その平和さに僅かに目を緩めて、支度を済ませて自室を出る。

「おはよう」
「おはようございます」

 リビング代わりの事務所に行けば、すでに百日はそこにいた。当たり前ではあるが、朝起きた時に鼻腔に通った香りの元はこの人だったのだろう。
 親代わりのこの人間が、夜いつ寝ているのかいまだに京吾は知らなかった。自分よりも遅く寝て、自分よりも早く起きる。
 共に過ごしているというのに、百日のことで知っていることはあまりにも少なかった。
 何でも知っているはずなのに、何にも知らない。どころか、いつの間にか消えてしまいそうなほどに刹那的にも感じるほどだ。だからこそ飲み込むことを覚えたが、だからこそ寂しさという感情も覚えた。

「今日は気分が良かったからね。朝食は用意してあるよ」

 その言葉にテーブルを見れば、確かそこにはサンドイッチが行儀良く並べられていた。簡単なものではあるが、この探偵がたまに作る料理は確かに文句なしに美味しいと思う。それであれば自分が毎日作ればいいのに、しかし何故か是としない。
 ただ単にめんどくさがってるのだろうが、他に理由があるのかと勘繰ってしまう事もある。しかしその度に不毛なことに考えを割くのが馬鹿馬鹿しくなって、結局諦めるのだが。

「……ありがとうございます。いただきます」

 こちらの感情は分かっているのかもしれないが、しかし百日は京吾が口に出さない限りはただただ笑っているだけだ。問いただしたところで素知らぬ顔をされる事だってあるのだから、この助手がある種不貞腐れるのは当然の結果であるとも言えるだろう。
 椅子に座る。具沢山のサンドイッチは、しかし形は整ったままだった。ふわふわのパンに厚焼きの卵、新鮮な野菜は色とりどりで、断面から見える緑や赤が食欲をそそった。ベーコンはほんのりと焼いているのか、香ばしい匂いが鼻腔を通る。そのほかにも半熟の卵、チーズなどまるで昨日の夜から仕込んでおいたとでも言わんばかりに種類豊富なそれに、確かに腹の虫は力無さげに鳴いた。
 手を合わせてそれを食す。見た目通り、百日の作る料理はいつも美味しかった。ただのサンドイッチだ。食材を挟めば終わるものであるはずなのに、何か手を加えたい気質なのか百日が手を加えれば何かしら華やかになる。
 口を大きく開けて頬張っていれば、こちらを見て笑う百日と目が合う。「なんえふか」「食べながら喋るものじゃないよ」「……だったら食べてる時に見ないでください。なんですか?」飲み込んで、再度百日を見る。百日は頬杖をついて、にんまりと口角を上げるだけだ。口にあったようでよかったよ、だなんて分かりきった言葉を口にして、それから自身のカップを傾けた。
 そもそもこの味で今まで育っているのだ。口に合わないはずもないが、しかしそれを言うのもなんだか癪で。次自分がサンドイッチを作る時はこれ以上の種類を作ろうと心の中で意気込んだ。
 
「ごちそうさまでした。……百日はもう食べたんですよね」
「あはは、ママと呼びなさい」
「……」

 文脈も何もないそれに息を吐く。子供の頃にそう呼んでいた事もあったが、この年齢でその呼称で呼んでいる人間は少ないだろう。
 親であることには変わりない。だというのに見た目がそぐわないものだから、最近では周囲から親戚や兄弟と思われる方が多いかもしれない。
 最近はこの見た目を好んで男性と見えることが多いが、幼少期はむしろ女性のそれであったように覚えている。自分と似ている顔の造形が変わってるようには思えないが、それでも確かに「母親」と認識していた程度には女性的だったのだ。
 彼女、基彼を見る。変わらず笑う百日に、また息を吐いてから食器を片付けようと立ち上がった。足元にすり寄る愛猫を一撫でして、今日の予定はとふと考える。
 一昨日大きな依頼が終わったばかりのため、しばらくはゆっくりと出来るだろうか。書類は基本片付いたし、ジョセフィーヌを洗うのもいいかもしれない。瞬間何かを察知したのか、なあんとひとつ声を上げた彼女は逃げるように百日の足元に駆けて行った。
 くすくすとそれに笑う百日は、なだめる様に彼女を撫でる。日常の光景だ。朝日が部屋に満ちて、コーヒーの残り香がゆるく眠気を飛ばしていく。大小関係なく、依頼が終わればこの風景をよく目にしていた。どんなに悲惨な事件の後でだって、この光景が変わることはなかったのだ。
 だから、知らずのうちに未来を望んで。それが不確かだと実感するたびに、どうしようもなく焦がれるような感情になる。それがどうしてだかはわからないけれど。

 ぴん、とジョセフィーヌの猫耳が立つ。百日の膝の上でごろんと寛いでいた彼女は、一度ぐっと伸びをした後に素早く床に飛び降りた。その動作に、おやと百日と京吾の目線は合う。
 そうして──カラン、と。事務所に事件の音が鳴った。

「おや、今日は楽しい日になりそうだね」
「貴方が楽しい日は碌な事がなさそうですけどね」

 不敵に笑う探偵は、助手の言葉にまたさらに笑みを深めた。

日常かもしれない